DoRouGh’s blog

好きなこと、日常を自由に書いていこうと思います。

台風と大安

9月23日 

 今年の923日は秋分の日であったのだが、運勢としては大安、一粒万倍日、大明日、天恩日が重なったとてもおめでたい日だったそう。一粒万倍日とは、1粒の種籾から稲穂になり、万もの米粒が獲れることを意味するそうで、大明日と天恩日は文字通りめでたい日なのだそう。不勉強なもので、大安以外はわからなかったのでネットで調べてみたのだが、実にこんなにも運勢を決める日があり正直驚いた。こんな感じで験担ぎしすぎるとがんじがらめになって毎日が生きづらくなってしまうかもしれないが、冠婚葬祭ぐらいの節目では確かに根拠として気にするのもありなのかしれない。案の定、そんな23日には友人3人もそれぞれ結婚したというおめでたいニュースが飛び込んできた。ただ1つ残念なのは今年のシルバーウィークは悉くの台風の嵐。天気の上ではあまり大安ではなかった模様。

 

 個人的な意見だが、結婚と聞くと昔から何故か無条件にモーツァルトフィガロの結婚序曲を自然と思い浮かべる。めでたい曲調と思って昔は聴いていたのだが、大人になって全編のオペラを見てみると、確かに最後はハッピーエンドな結婚であるものの途中の紆余曲折がなかなかな猥雑なストーリーであったことに驚愕した覚えがある。詳しくはウィキペディア大先生にお任せしようと思うが、モーツァルトのオペラはオペラを知らない人でも十分に楽しめる作品だ。メロディーもキャッチャーであるため聴きやすく楽しい。そういう意味では序曲のあの人あたりの良さはオペラ全編にもマッチしていると勝手に納得した。

 

 そんなモーツァルトといえば殆どの人が知っている作曲家で、それに関する本も数多い。半年ほど前に早稲田の本屋で手に入れたモーツァルトの本を最近ようやく読み始めている。井上太郎さんという方が書かれた本で、副題には いき・エロス・秘儀 とある。前半の最初ぐらいまでしか読めていないが、どうやらモーツァルトの音楽を日本の江戸時代の「粋」に共通するところを見出しているようである。その本にはモーツァルトに関する本かと疑うほどに「粋」について解説されているのだが、それによるとどうやら「粋」というのは既存のものよりも今っぽい感覚に即した上でより良い行動・工夫をすることであるそうだ。

 これを自分なりに解釈すると、着るもののことであればわかるような気がしている。江戸時代は着物なので裾や襟元がはだけることがあった時に下地がちらっと見えることもある。控えめな外面でもしっかりとしている下地の服であれば普段見えないところにお金をかける「粋」という感覚がある。内側を良いものというのは一見意味がないように思えるけれど着心地はよくなるし愛着もより一塩となるメリットが確実にあるということなのだろう。

 

 ちょっとオーバーな解釈かもしれないが、人間関係でも同じことなのかもしれないなんて思ったりした。家という下地の上で社会生活が成り立っている。一つ屋根の下で暮らす家族とは結局は個人の集まりなのだから、それだけお互いを思いやって良好な関係を築くことで、社会に出て働いた時に、学校に行く時に、ナイスな振る舞いができるような気がする。23日に籍を入れた友人たちは縁起の良いスタートを迎えているので、きっとこれから良い家庭を築くことだろうと思っているし願っている。

 なんて、独身の僕があれこれ考えて語っても説得力がないのが痛いところ。いつか自分の家庭を持てた時にでも思い出せたらなと思う。そんな台風一過の穏やかな夜。

忘れてもよいこと と 忘れたくないこと

忘れてもよいこと 

 自分で言うのも何であるが、私は忘れることに関しては一丁前の自信がある。仕事で大事な打ち合わせの後に会議の話題を聞かれてもスラスラと出てこない。そのせいで打ち合わせの後に上司に報告を求められた際に困ったことが何度もある。何とかしたいといつも思っているものの、当座のところメモを取ることで何とかその場をしのいでいる現状。ほんのわずかな弁解をすると、昔からそうなのである。昨晩何を食べたのかなど、小学校の頃以来素早く答えられたことなどない。大事なことに限って欲しい情報が思い出せない、そんな経験私だけなのだろうか。その癖、少しキーワードを言われるとふとその時の記憶が蘇ってくる。まるで青春時代に聴いていた音楽を聴くとその当時を思い出すかのように。これだから後味がより一層悪い。会議後の報告に「ああ、こんなこと言っていましたねぇ」なんて言おうものなら失笑される。記憶力がよい人(人並み以上の人)は心の底から羨ましい。

 

 そういえば、今となってはスマホ先生に覚えていただいているような人の電話番号を、昔は自分で覚えていたような気がする。三島由紀夫のような人がそばにいたら「何だそのタイマンな脳みそは」と怒られてしまいそうであるが、覚える必要がなくなると困らないものである。昔のおかげか、友人の固定電話の番号の一部をキャッシュカードの暗証番号にしていたりすることを考えると無機質な番号とはいえ頭の体操になっていたのだなと思う。昔の脳みそ電話帳も悪くないなんて思ったりもする。

 

 

 話を戻すとこんな私なので、学生時代の記憶も当然色あせてしまっている。仕事など大事なことであればその都度メモを取ればいいが、個人の記憶にしかないようなプライベートなことは残念ながら色あせていってしまう一方である。学生時代の酸いも甘い記憶すら消えてしまっていると思うと途端にさみしくなる。

忘れたくないこと 

 身の上話で恐縮だが、学生時代に付き合っていた彼女がいたが、大学になるタイミングで気持ちがすれ違って別れてしまった。喧嘩別れした訳ではないのでSNSでは繋がっていたのだが、最近になって結婚と出産を知った。これらはSNSでの投稿で知った。結婚の時はメッセージを送ったりしたものだが、旦那さんにも気を遣うべきかと思い、いいねのハートマークを押すぐらいしか出来なくなる。一度は愛した人だから面と向かっておめでとうとか言ってあげたいのだが、なかなかできない。

 

 そんな気持ちになれたのも不思議なもので、昔を忘れる力があったからな気もする。喧嘩別れではないものの(今となってはどう言う名目で別れたのかも忘れたが)、最後の方はひどくお粗末な熟年カップルのような喧嘩をしていた記憶がある。時間が癒してくれたようなこともあると思うが、忘れっぽいその性格で理不尽なことに怒った理由や喧嘩の詳細などぼやかしてくれて楽しかったいい思い出ばかり何故か思い出される。何でであろうか、恋人の時のような気持ちはとうの昔に冷めてしまっているというのに。

 

 

 とにもかくにも、先日子どもを無事に出産した彼女に対して、遠くからおめでとうと思うことにする。いつか伝えることができると良いと思いながら。

 しかし、忘れることができてよかった、そんな喧嘩していた日々の記憶など。きっと忘れてよかったことなのだろう。

 

 

書信表明

 とあるアパートにひとりで暮らしているのだが、最近ではリモートワークをしている日には誰とも喋らないで1日を終えるなんてこともある。たまに声を出してあげないと、急に電話が来たときなど咄嗟に喉から声が出ないなんてこともある。何よりコミュニケーションがないので、1人で完結しようというマインドになってどんどん思考回路が内向きになっていく。これはまずい、と思って何か始めようと文を認めることにした。

 

 ここでは自由気ままに好きなこと、思ったことを書いていこうと思う。食べ物、音楽、本、そのほか趣味やその時の関心事。それだけであれば別に日記でもいいので、せっかくの場なので誰かに宛てた手紙を想定して、誰か相手がいるようなものだと思って書こうと思う。もし読んでくれる方がいるのであれば、誰かと面白いと思えることを共有できたらそれは嬉しいことだ。

 そういえば手紙なんて子どものころに書いたころが最後のような気がする。今やネットで誰とでも気軽に素早くコミュニケーションができて便利でありがたいと感じながらも、書き直すのに時間がかかってやっと書いたと思ってもいつの間にか便箋の中で文字が少し斜めになってしまうあの手書きの”読みにくさ”が今となっては懐かしい気もする。

 

 また、アナログの手紙の良さの1つとして、人の文字を見れることだったような気もする。ある人は払いの時に異常に長く書いてしまう癖があるだとか、またある人は全体的に角張っているけれど”か”の文字の右肩の部分のような曲線の部分はなんとなくしなやかであるだとか、人それぞれの癖が滲み出てそれを観察するのがとても楽しい。

 しかしながら今はデジタルの時代、この文字もパソコンに手打ちしている文字な訳で、文字の癖から読み取れるものは皆無。でも、本当に必要なメッセージ性だとかコンテンツに関しては同じ文字だから伝達できるはず、なんて思ってみたり。

 

 難しいことは抜きにして、ご興味があれば暇つぶし程度に散文にどうぞお付き合いいただければ。